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日本流の真髄 和のプロトコル
普通の人は なまじ知らないほうが良いかもしれない…。  日本史の底流にある「和のプロトコル」を今ここに公開!
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DATE: 2008/04/06(日)   CATEGORY: 本物
天下の徳川
織田がつき、羽柴がこねし天下餅(てんかもち)、すわりしままに食うは徳川。みなさんはこの歌知ってますか?
織田信長が推し進め、秀吉が確立した天下と言うものを家康がうまく手に入れたという感じに見えます。

徳川家康の人物像。この句を見ると「すわりしままに食うは」と言うところからも見られるように悪人のイメージが強いですね。実際はどうだったのでしょうか?実際に歴史を振り返って見ましょう。

幼少のころは今川義元の人質として過ごし、次に織田の人質となる。その後は今川方の家臣として城を任されるが義元が殺されると今川方から独立。織田信長との同盟の中で戦にかり出されたり、家康の正室の築山殿は信長への謀反に疑いをかけられ長男信康とともに切腹を命じらている。また、信玄が足利義昭からの「信長を討てという」要請に応じ上洛を開始し当時最強の騎馬軍団である武田騎馬隊と戦を行ったときには命を落としそうになる。

本能寺の変の時、家康は堺にいた。光秀が京都で信長を討った事で、京都からの道を通って、故郷の三河(愛知県)に変えることができなくなった、だから、奈良から、伊賀路を通る狭い山道を少数の人間だけで、進んで逃げるしか方法はなかったのです。そうしないと何時明智光秀が攻めてきたり、追ってきたりするかわからなかったから。その後情勢により秀吉の家臣となるも三河から土地制の悪い武蔵に移されるなどかなりの苦汁をなめている。
家康はこのような最悪の環境を経験したからこそ、天下を取るという戦略戦を培えたのではないだろうか?

家康の統治においても真髄「和」が垣間見られる。かつて敵だった武田の武将を取り込み兵力強化。家臣に対しては情に厚く大切に扱った等。苦労の中で研ぎ澄まされた戦略眼の持ち主であった。またこのような「和」のルールが守られていたからこそ徳川二百年の長い江戸時代を存在させる事ができたのではないだろうか。このような組織体制作りは家康以外にどれだけの武将が出来たのだろうか?

教科書や参考書の中にある歴史と言うものはその中に生きた真髄のルールや「和」のプロトコルは隠れているように思える。

ちなみに、江戸幕府二代目徳川秀忠は家康の三男なんですよ。(豆知識)
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